宗祖親鸞聖人の御生涯


 

浄土真宗の御開山親鸞聖人(1173~1262)は、平安時代の終わりに京都で生を受けられ、幼くして両親と死別されました。

9歳の時、青蓮院門跡慈圓和尚の下で頭を丸め出家され僧侶となり、その後20年比叡山で厳しい修行をなされました。

 

源平の争乱が長引き、京の町も荒れ果てて、多くの人々が苦しみ迷っていた中、世の人々を真に救いうる教えが何であるかを悟ることは出来ず、

「叡山での修行では、御仏の光を見つけることが出来ないし、迷える人々に救いの手をさしのべることも出来ない」と親鸞聖人は思われ、山を下りる決心をされました。

 

その後、聖徳太子を奉安された六角堂での夢告もあり、新たな教えと出会われました。

その頃京都では、法然上人(1133~1212)がお念仏の教えを広めておられ、お念仏の教えを聞きに法然上人のもとを訪ねられた親鸞聖人は、まるで雷に打たれたようにショックを受け、法然上人にお会いできたことを心から喜ばれ、この法然上人のもとで、親鸞聖人は本願他力のお念仏の教えを、あたかも乾いた大地に雨がしみていくように吸収されていかれました。

 

しかし、法然上人の念仏の教えが盛んになってきたことを快く思っていない人達の陰謀により、法然上人は土佐に、親鸞聖人は越後に流され(1207)離ればなれとなりました。

親鸞聖人は深い悲しみに沈まれましたが、法然上人に教えていただいたお念仏の教えを越後の国でも広めることが、遠く離ればなれになった法然上人のお心に通じるだけでなく、当時の都から離れたところに仏法を弘め人々を救うことが、阿弥陀如来の願いであると思われたのです。

 

その後、流罪を赦された(1211)親鸞聖人は一刻も早く法然上人と再会しようと、雪深い北陸路をさけ雪解けの早い関東から一路京都を目指されました。

その途中法然上人がお亡くなりになったという訃報を受けた親鸞聖人は、法然上人と再会出来ないならば、京都へは戻らず関東の地で布教をしようとお考えになり、稲田を中心に布教を始められ、瞬く間にお念仏の教えは関東一円に広まっていきました。

 

そして、親鸞聖人はこの頃、浄土真宗の根本聖典である『教行信証』を著されました。その年(1224)を以て浄土真宗では、『立教開宗』の年としています。

 

その後、関東から京都へ戻られた親鸞聖人は、多くの著書を作られた後、九十歳で御浄土に還られました。